仏陀との対話2009.9.19 の記事から明け方のことです。 一度目が覚めた後、ぼんやりと以前4大天使にあったときの領域を思い出していました。 (http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200903120000/) 「意識がまるで銀河のように見えていたなあ。意識の領域のはずれに、あの時気づかなかったけれど、もしかしたら仏陀が存在していたかもしれない・・・」 なぜそう思ったのかは正直よくわかりませんが、そんな気がしてなりませんでした。 ガイドが教えてくれていたのかもしれません。 そんなことをぼんやりと思っていた時のことです。 こじんまりした日本庭園の中に、ある人物が現れました。 その人物の存在自体がある名前のを訴えかけていました。 仏陀です。 私は無我夢中で次のような質問をし始めました。 「悟り」とはなんですか? 「真実への道。」 「真実とはなんですか?」 「自分自身を見出すための究極の道。」 「あなたの意識レベルは?」 「1万4千。」 「なぜ私ごときがそんな高いところまでこられるのですか?」 「高次の自分の助力を得ているからだ。」 ちょっと補足しますと、私が一万四千のレベルまで到達できるわけがありませんから、 ホログラムのようなもので「本来の私」である集合意識の中に存在する仏陀のパーソナリティーに会っているところを、 高次の私が見せてくれている、このようにご理解ください。 仏陀は広くエネルギーとして存在しているはずですから、 幅広い意識レベルに存在でき、 かつ幅広い活動ができると考えた方がよいのかもしれません。 「以前、死後にあなたのもとへ行くようにとあなたから言われたのですが、 あれはどのように考えたらよいのですか。」 「本来の君(意識の拡大した私)のたっての願いだから。」 つまり、意識の拡大した大きな私自身の願いが現れて「ぜひ私のもとへ」という言い方になったみたいです。 C1では全く考えたこともなかったのですが。 むしろ今まで宗教とは無縁の生活を長いこと送ってきました。 私はどの宗教にも属していません。 キリスト教にも、仏教にも。 イエスやブッダが好きでも嫌いでもありません。 しかし、意識が拡大した「私」は、イエスやブッダに会いたいと望んでいるみたいなのです。 だから会いに行った、こういうことかもしれません。 続けて仏陀に聞いてみました。 「弟子には会っているのですか?」 「会っていない。」 「あなた(仏陀)であるという証拠は?」 私は自分自身で無理だと思いつつも聞いてみました。 すると、「天上天下唯我独尊」という言葉とともに菩提樹の下で弟子達に見つめられながら息を引き取る場面が見えてきました。 でもそれだけでは到底信じられないので、次のように言てみました。 「あなたしかできない話をしてください。」 「真実の教えとは、今生(C1のことです)において生きる喜びを見出すこと。」 「引き寄せの法則と似ていますね。」 「本来の仏教とは、現世をよりよくいきるための知恵であった。それが、年代が進むにつれて、ただの念仏宗教になり下がってしまった。」 こんな感じのことを言われました。 私の先入観が入っているのかもしれませんが、 もし私が会っている人物があの仏陀であり、もし上で語ったことが本意であるならば、 今の仏教は仏陀の教えとは全くかけ離れたものになっているかもしれませんね。 もちろん、それはキリスト教など、他の宗教でも一緒だとは思うのですが (たとえば、キリスト教については、シルバーバーチなんかは、酷評していますね)。 話を戻すと、目の前にいる仏陀はあまり多くを語りません。 私から質問をしない限り余計な事を語ろうとはしません。 何かを押し付けたりもしません。 印象としては、すべての欲から解放されている感じがなんとなくしました。 一言で言うと、中庸の道とでもいう状態です。 以前仏陀に会ったときは、全宇宙の源(陽のエネルギーの源)と黄泉の国(陰のエネルギーの源)の境目のような場所にある洞窟の前でした。 (http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200904120000/) アジア人に見えました。 インド人ではなく。 すると、あとでコメントを下さる方から、釈迦族はモンゴロイドだったという伝説があると教えていただきました。 その伝説など私は知るよしもなかったのですが、自分が見てきた釈迦がアジア系の人だったことに驚きました。 今回会った仏陀の姿も、その時の印象のままでした。 本来の私とは違う印象がありました。 はっきりとした確信のようなものはないのですが、 仏陀というエネルギー系にいまだに存在するパーソナリティーであると感じました。 ここで個別意識と集合意識の違いの説明を少ししたいと思います。 我々C1で生きるものにとっては全くなじみのないことなのですが、 我々が死んで向こうの世界に行き、次第に進化していけばいくほど、 生きていた頃の「自分」(今、私達が「自分だ」と考えている意識のことです)ではなく、 自分が属している集合意識全体を「自分」だと認識するようになるみたいです。 モンローさんの考え方に従って説明しますと、 まず、最初の集合意識はI/T(モンローさんはI/Thereといったみたいです。C1にいる私(I)と向こうの世界(There)にいる私という意味が込められているみたいです。)です。 モーエンさんはディスクという呼び方をされているようです。 この中には、数千の個別意識(パーソナリティー)が所属していて、我々がたとえばフォーカス27を卒業して輪廻転生を抜けフォーカス35まで行くと、 おそらく個別意識としての感覚よりも、集合意識としての感覚、つまり、C1にいた頃の自分自身の人生だけでなく、 C1にいた頃は他人であった他人の人生も、あたかも自分自身であるかのように追体験することができるようになり、 数千人の体験すべてと同時に感応できる、そういった進化した感覚を持つことができるようになるとされています。 この情報のソース(源)は、あのシルバーバーチです。 さらにモンローさんによれば、いわゆる集合意識というものにもいくつかのまとまりがあって、 最初の集合意識であるI/Tの他にも、I/Tクラスターというものがあるとしています。 I/Tが多数寄り集まったものですね。 さらにこのI/Tクラスターが多数集まると、 I/Tスーパークラスターという集合意識になると、モンローさんは考えていたみたいです。 ただあくまでこれは、モンローさんにとっての「真実」だという点にご注意ください。 進化が進むにつれて、私達は、どんどん「自分」の範囲を拡大していき、 最終的には人類全体の集合意識と感応することができるようになると思われます。 そのレベルが、いつも私がお話ししている「本来の自分」のレベルです。 この中にすべての人類の個別意識(パーソナリティー)が含まれています。 私や今このブログをご覧のみなさん、モンローさん、イエス、仏陀などすべての存在です。 ですから、理論的には、「本来の私」に会えるということは、他の存在にも誰にでも会えるということになります。 もちろん、私だけではなく、すべての人が私と同様、様々な人物と会うことは可能です。 私は特別な存在ではありませんから。 ちょっと脱線しますが、集合意識と対話する時、たとえば、私が「本来の私」と話している状態というのは、 一体どういうことなのかということについてお話ししたいと思います。 我々の知覚できるすべての世界はホログラフィックなものであると言われていますが、仮に集合意識のだれかと話をする場合、 その人物のパーソナリティーと私とは別人格であるかのようにビジョンがホログラムとして投影されて見えてきます。 すべて私の信念体系に合わせて作り上げられたホログラム映像なのです。 ですから、今回も本来の私と融合した私は、同じく本来の私の中にいるブッダに会えた、こういうことなのです。 この辺の理解は、「シリウス革命」を読むと理論的にわかってきます。 興味のある方はそちらをお読みいただきたいです。 ただし、非常に難解ではありますが・・・「私」=「他人」であるのはなぜかという理論的な説明が載っています。 理系の方には特にお勧めですね。 ただ、「シリウス革命」にのっている説明も数多くあるうちのひとつの説明方法に過ぎないと私は思っています。 話が脱線しましたが、もとに戻しますと、個別意識(パーソナリティー)は、我々が死んでしまったとしても、そのまま存続し続けると言われています。 しかし、個別意識は、我々が進化していくにつれてあまり重要だとは感じなくなってくるみたいです。 その代り、我々は部分ではなく、全体としても「自分」を意識するようになるみたいです。それが、「ワンネス」へ向かう道みたいです。 つまり、「ワンネス」とは、部分としての意識から全体として意識しだすというか、全体としての部分であることを再認識するようになることを指すのかもしれません。 もしわれわれが「ワンネス」に向かうのであれば、「私」=「仏陀」であるはずですし、同様に「私」=「このブログをご覧のみなさん」、であるはずです。 そして、誰もが仏陀であるわけです。集合意識には当然誰もが属していることになりますから。 なぜ「本来の私」と仏陀が会話できるのかという疑問が当然わくと思いますが、そのようにご理解ください。 念のため補足しますと、私が仏陀と会ったからといって、それによって権威づけようとしているわけではありませんよ。 何度も申し上げているように、そんなことをしても何のメリットも私にはありませんし、そもそもそんなことをする「動機」がないからです。 ではなんのためにわざわざ「高次の存在」とぼかさずに「仏陀」と自分が体験した通りに書いたかと言いますと、 そうすることで、上に述べたような集合意識の説明やいわゆる「ワンネス」の考え方について、私なりの現段階の理解としてご説明できるからなんです。 「みなさん、仏陀なんですよ」、というのは、私オリジナルの考え方ではなく、多くの人が述べています。 その方々にご迷惑がかかるといけませんから、あえて名前は出しませんが。 余談ですが、初めて「本来の自分」に会ったとき、私はそんな存在がいるとは全く知りませんでしたし、 ヘミシンク関連のどの本にも載っていませんでしたから、どう考えてよいのか皆目見当がつきませんでした (http://plaza.rakuten.co.jp/imimi/diary/200903090000/)。 もしかして、自分の聞き間違いだったのではないかとさえ思いました。 しかし、ある時、ある方からモリケンさんのブログをご紹介いただき、 その時初めてモリケンさんのブログを読ませていただき、「本来の自分」の存在を知りました (モリケンさんのブログには他にも私の体験と共通する点があり、非常に驚きました。他に検証する方法がなかったものですから。)。 その後、バシャールも「本来の自分」について述べていることが、後に出版された坂本さんの本からわかりました。 バシャールによれば、「本来の自分」とは、私が考えていたのと同様、集合意識であり、この宇宙全体において上から2番目のレベルにあるのだと述べていました。 ただ、バシャールについては、すべてを鵜呑みにするのは危険だということに最近になって気づきました。 もちろん、完璧な存在などいないわけですから、解釈の相違が生じることはありうるわけです。 ただ、バシャールの場合、解釈が極めて人間よりで(SFチックであって)、情報自体に歪みがあるように私には思えました。 でもバシャールが全く信用できないと言っているわけではありません。 割と信用できるバシャールの情報ですら慎重に判断すべき、こう申し上げているんです。 一例を挙げれば、いわゆるアヌンナキの話なども、日本神界の話と同様、伝説レベルの話と捉えるべきだと私は今は考えていますが、 バシャールはそれを文字通りにとらえているようです。 情報の入手源は複数のソース(源)から仕入れないと、一つのソースの話を信じ切ってしまうことがある、これは大変危険だということなんです。 今日は、仏陀に会ったという話をきっかけにして、いわゆる個別意識と集合意識の違いについてご説明させていただきました。 もちろん、これが唯一絶対の真実というわけではありません。 あくまでも一つの物の見方としてご理解いただければと思っています。 いろんな話が交錯してくる中で、いったいどれを信じたらいいんだろうという状況になる場合も当然あると思います。 結論から言いますと、どれも鵜呑みにするのは危険だと思います。 どの存在であろうと、完全な存在などいないからです。 それはオコツトであろうと、バシャールであろうと、モンローさんであろうと一緒です。 最終的には、自分自身の目で見極める、 そのためには、人づてではなく、直接情報源に自分の力で行き、 自ら情報を取得してくることが必要ではないかと思います。 今回の話をきっかけに、より多くの方がヘミシンクに興味を持ち、 自分の目で自分にとっての真実を見極めていただければ、幸いです。 |